日本一の奇跡、清流仁淀川。そして悲運の武将、武田勝頼が眠る地を巡る旅の駅

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◆武田勝頼の土佐潜行ルート

 戦国時代末期、武田勝頼は天目山では自害してはおらず、土佐の香宗我部家を頼り、土佐に落ち延びてきたと当地の残された武田家系図に記されており、影武者を使ったことが言い伝えられてきている。

 天正10年(1582)、信長の軍に負けた武田勝頼の一行(子供と家臣達)は、上野国利根郡(現在の群馬県利根郡)に一時は隠れます。その後、諸国を巡ります。(系図より)武田家の末裔である香宗我部家(こうそかべけ)の住む土佐(四国の高知県)へ向かう事となります。土佐では早くから、武田氏の先祖が入ってきて根を張っており、武田の姓を改めて香宗我部と成り、四国統一の中心武将となり各地で活躍を見せていた。

 天目山以降、上州へ落ち延びた武田家一行は、香宗我部の手引きにより、利根川を下り、海路四国に入る。吉野川を遡上し土佐に入る。勝頼が落ち延びた当時は、香宗我部氏は長宗我部元親の弟である親泰が土佐では実権を持っており、どちらかといえば長宗我部氏の元で動いていた。親泰は武田勝頼と通じていた。

 さらに土佐へ第一歩を記したのは、大豊町立川峯際空石 → 植田村西屋敷 そして楠目大法寺香宗我部氏の本拠地である現在の香美市(香美郡土佐山田)の大宝寺に招かれるのである。(この場所には他に武田神社などがあり、勝頼の子孫である武田家が代々守っている。)

 この楠目大法寺は、現在の高知県の香美市であり、武田家の家臣であった中原秋家(なかはらあきいえ)の地でした。後に長宗我部元親の弟が養子として入り香宗我部を継いでいる。その山田で、住民の娘に惚れて懐胎をさせます。男子を出生、後の末裔である証として母(懐妊された女子)に金の茶碗(ちゃわん)、金の笄(くし)をあたえ置くとあります。現在でも、山田では末裔の方が存在しておるとの事です。

 勝頼が香宗我部氏を頼って来た事は当然の事ながら長宗我部元親も知っていた事であろう。長宗我部元親は戦国の勢力争いのため、多くの落ち武者を受け入れていたとも考えられている。しかし、元親にとってそれは、豊臣秀吉に知られたくないことであり、従って吾川山庄の高吾北地方(仁淀川町大崎含むエリア)より広く支配している片岡氏を紹介され、勝頼は武田家の再興を願い西へと向かう。武田家系図には、天正11~12年(1583~1584)に吾川郡安居の奥の樫山(現仁淀川町の樫山地区)にこもり、天正12年(1584)、樫山から南東に位置する吾川郡大崎の寺村に移るとある。のちに、越知町芝尾村(仁淀川町の東隣の町、現在の越知町柴尾地区)に一時期住んだと考えられる。

 そもそも香宗我部家は元々武田氏の家系で 、四代目武田信義の子、忠頼(一条次郎)は、源頼朝に殺されるが(これに関しては諸説あり)、その子(一条、甘利、香宗我部)秋道を家臣中原秋家が補佐し、共に土佐に入る(建久四年1193)。秋道は秋家(香長平野の東部宗我・深淵(現香南市野市町))の地頭職を相伝、香宗我部秋道家を名のり、香宗城城主(現香南市野市町中ノ村)、後、香宗我部親康と言う。中原秋家は山田に移り、山田氏の祖となる。山田氏の城として楠目城跡がある。(土佐山田町の埋蔵文化調査報告書より)