日本一の奇跡、清流仁淀川。そして悲運の武将、武田勝頼が眠る地を巡る旅の駅

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◆片岡氏の衰退と、武田勝頼(大崎玄蕃)の出現

 天正12年2月8日、寺村より西へ下り大崎の川井に移り、住所を定める。この時に「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と名乗る。四国を平定していた土佐の長宗我部元親だったが、天正13年(1585)、豊臣秀吉との戦い(金子の陣)が展開され、参戦していた土佐の片岡氏(片岡光綱(かたおかみつつな))は、この戦いの中で7月7日に自害してしまう。同じく天正13年(1585)、勝頼は、武田家系図によれば、仁淀川長寺村地区に武田家の先祖を祀る為の菩提寺(流光山成福寺)を建立する。現在でも流行山成福寺(跡)には、「観音堂(かんのんどう)」と聖観音立像(平安時代)【町指定文化財】が現存している。本堂は成福寺の跡に建っているとされ、寛永15年(1638)観音堂を修理した旨の古い棟札が残されている。当地では毎年、旧暦1月28日には行事と餅まきなどが行われている。天正14年(1586) 片岡氏最後の頭首である片岡光政も九州豊後の戸次川の戦いで戦死する。勝頼もこの合戦に参戦したと伝えられている。

 片岡光政の死後、勝頼(大崎玄蕃)達職業武士が当地の実権を握り、片岡氏亡き後、片岡氏の政務を支えていたと考えられる。同じく天正14年(1586)に勝頼は、川井(仁淀川町大崎地区)に「川井神社」(またの名を武田城八幡宮、現在の大崎八幡宮)を建立する。この時の神社の初代神官の名は、岡林甲斐守源勝貞(おかばやし、かいのかみ、みなもとのかつさだ)という。この神社の場所は、南と西を仁淀川と土居川に挟まれた小高い山で、川側は絶壁となっており、天然の要塞である。北と東は、なだらかな地形で城下町となっており、長い石段が城下町の方に配置されている。また、大崎の名の通り、大きな岬(みさき)でもあり、川からの船で物資を運ぶ為の港町として賑わっていた。この大崎八幡宮には、高野山に奉蔵されている武田勝頼の肖像画に描かれている紋所と同様の”剣花菱家紋入り手鏡”が奉納されている。勝頼は、父の信玄が亡くなってから武田氏が滅亡するまでの約10年間に、武田家の家紋を作り変えたのではと思われる。

 また、神像として、武田家元祖12名を祀ったと記されている。破損が激しいが木の神像が10体現存している。今でも縁日には、神官によって昔ながらの祭祀が行われ、子孫達の繁栄も祈願されている。神事は「玄蕃祭り」として行われ、また民衆は「玄蕃踊り」が受け継がれて踊るのである。これらの建立事業は、片岡氏の後ろ盾があって実現したものであろうし、玄蕃周辺の人々がいずれも寺や神社を中心に住居にした形跡からして、一般の武士扱いでなかったことが考えられる。

 後に勝頼は子供等を名のある豪族達と婚姻させて、現在の繁栄に至っております。片岡氏が衰退した後も、勝頼(大崎玄蕃)が生きながらえ活躍できた背景には、片岡光網家臣の山本氏との関わりがとても重要な鍵を握っていると考えています。

 また、玄蕃踊り、玄蕃太鼓や神楽などの芸能の振興にも積極的であった様です。ここからが大崎玄蕃(武田勝頼)の本当の伝説の始まりであったのかもしれません。広く土佐の各地で残っている大崎玄蕃の逸話が人物の壮大さを物語っております。また土佐以降のこの逸話が本当であれば、彼は最も秀でたる戦国武将であり我々の誇るヒーロー像そのものであります。そして、この地(土佐)等で25年の間に数々の活躍をされた後、慶長14年(1609)8月25日に64歳で逝去され、鳴玉神社に葬ると記録(仁淀川町お呼び佐川町に残る武田家系図に記載)があります。鳴玉神社には今も末裔の方々が訪れては綺麗に掃除され、花を献えられている。