日本一の奇跡、清流仁淀川。そして悲運の武将、武田勝頼が眠る地を巡る旅の駅

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◆長篠(ながしの)の戦い

長篠の戦い
長篠の戦い

 長篠の戦にて武田家は大敗する。信玄の死去を知ったとたんに、徳川家康の元へ寝返った元家臣(奥平)の裏切り行為を勝頼は許す事ができなかったはずである。後継ぎとしてのプライドもあったであろう。そして、天正3年(1575)5月に、勝頼の長篠城攻略に向けた戦いが始まった。優勢な数で長篠城を取り囲み、攻防を続けるが、予想外の粘りを見せる。兵糧倉庫を奪う事に成功し、兵糧攻めを開始する。こうなると、長篠城も時間の問題である。しかし、兵糧攻めの完成よりも早く、信長と家康の連合軍三万幾千の兵が、長篠城の近くの設楽原に到着した。これでは城攻めどころではなくなったのである。
 敵軍の圧倒的な数と、自軍の内乱等の要因もあり、とても不利な状況と判断した重臣達は撤退を進言し、勝頼を諫(いさ)めたが、勝頼は軍を退ける事を恥として決戦に臨む決断をする。「御旗楯無、ご照覧あれ」(勝頼が決戦の誓いを立てた言葉である)御旗は平安の頃から伝えられる源氏の象徴である白旗で武田家の家宝である。楯無の鎧もまた、代々の家宝である。この二つの前で誓った言葉は決して覆せないと言うのが、武田家の暗黙のルールであった。
 5月21日、設楽ヶ原に布陣した武田軍であったが決戦当日の朝に徳川軍が武田軍に奇襲をかけ、長篠城に入り、武田軍の背後を取った。退路を断たれ、挟み撃ちの状態となった武田軍は進む他に道は無く、設楽ヶ原にて突撃。その結果、敵1000挺の鉄砲に攻撃されて、多くの名将らを失い、壊滅的な敗北を喫し、武田軍は命からがら甲府に退却したのである。大敗の後であるため、一時は家康に対して軍を進める事は出来ず、謀略等を企てている。天正5年(1577年)、父(信玄)の宿敵であった、上杉謙信と同盟を結び、同じ年に同盟を強化するために、後妻として勝頼は北条氏政の妹を正室に迎えた。