日本一の奇跡、清流仁淀川。そして悲運の武将、武田勝頼が眠る地を巡る旅の駅

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0889-20-2003

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◆武田家の滅亡への道

 天正8年(1580)、窮地に追い込まれている状態を考慮し、本拠地を躑躅ヶ崎館から新府へ移し、天正9年(1581)の暮れ近くに新府城に入城し、そこで新年を迎える。天正10年(1582)織田信長は徳川家康、北条氏政にはたらきかけ、武田討伐の軍をおこす。このとき織田軍に抵抗したのは勝頼の弟、仁科盛信(にしな もりのぶ)だけである。仁科盛信の家臣の者達が武田勝頼を討伐して、諏訪家の再興をと考えていたのに対し、最後まで兄の勝頼の味方をし、鳥居峠の戦いで戦死。その他武田一族の者は城を捨て逃亡する。(勝頼の弟)盛信の戦いぶりは「比類なき働き、前代未聞の次第なり」と敵方の織田信長公記でも絶賛され、後世に語り継がれた。

 天正10年(1582)3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡。その時に甲斐の有力国人で一門衆の小山田信茂と、信濃国人である真田昌幸が、勝頼を受け入れることを表明した。 もはや、甲府を支えきらぬと見た勝頼は親戚の小山田氏を頼って敗走したが、肝心の小山田氏が寝返ったため、行き場を失った勝頼達は、武田家ゆかりの地である天目山に向かった。天目山中にて織田方の追手と戦って、ついに自害する。この時最後までしたがって戦ったものわずか40数名。武田勝頼37才である。