日本一の奇跡、清流仁淀川。そして悲運の武将、武田勝頼が眠る地を巡る旅の駅

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寺村観音堂 流光山成福寺について

ひょうたん桜は語る 其の二

仁淀川町社会教育委員長  岡林照壽

・寺村観音堂について
 寺村観音堂は、成福寺と長宗我部地検帳(国重要文化財)から初見が有ります。一方土佐の武田家系図に勝頼の戒名が「成福院殿栄秋道勝大居士」と、又天正13年流光山建立と書かれていますので天正13年(1585)が寺名「流光山成福寺」の始まりであると思います。
 此の「成福寺」について系図等から拾ってみたいと思います。武田家系図には人王始祖神武天皇より56代帝位・清和天皇から続く系図で代々鎮守府将軍職ですが5代目頼信が始めて甲斐守と出てきます。7代目義光は武田家元祖也と書かれていて武田家の始祖と云われています。
義光を武田の元祖として、2代目義清は甲斐国を領し甲斐武田家の元祖とも云われています。此の人物に始めて「成福寺贈号に云」と出てきます。
12代盛行の次男時信の時代安芸(広島)へ移り活躍又甲斐に帰り繁栄は信玄公に至ると、何れも「成福寺贈号と云」と。甲斐武田流11代信成「快川和尚謚号云」などが数箇所出てきます。19代晴信(法性院機山信玄)と称す。新善光寺葬る。この場面は興味を引くところですね、恵林寺に葬ったが正しいのでしょうが、諏訪湖に葬ったなど謎が多く今だ確証は無いとも言われています。戒名は恵林寺殿機山玄公大居士神儀
神儀と云うのも謎ですが、かつて諏訪神社の大祝(最高位の神官)を司っていた勝頼が喪主を行っていますので善光寺で一旦葬儀を行ったのかも知れません。
20代勝頼(諏訪神四郎・伊那四郎・大崎玄蕃尉)「成福院殿栄秋道勝大居士」と戒名に「成福」の2文字が最後として出てきます。戒名の中の「秋道」驚きですね、勝頼が土佐に来たとき頼った香宗我部家の初代が「秋通(あきみち)」でした。
「成福寺贈号に云」と「快川謚号に云」の二つの文字は同じ意味を持っていて、成福寺は鎌倉に有り、貞永元年(1232年)、鎌倉幕府三代執権北條泰時の末男、泰次により建立されています。4代目の信義の時代源頼朝を助けて平家打倒に貢献しますが、勢力が大きくなりすぎて頼朝に力を削がれ、子供の一条忠頼は鎌倉に呼び出され殺されます。この忠頼の子供の秋通が1193年土佐に派遣され、後の香宗我部家となり、400年後勝頼が香宗我部家を頼り土佐に入ると系図に書かれています。
快川は快川結喜(かいせん じょうき)快川国師とも言われ武田信玄に招かれて恵林寺に入寺した人物です。織田信長の子の信忠が甲斐に進攻した時に武将六角義弼を匿ったことで他の僧侶達と共に山門で炙り殺された事件がありました。
系図の最後に12名の戒名がありますが、土屋惣蔵が快川を含む4人の和尚に相談し報告されたことが書かれていますので信玄に報告したのではないでしょうか。
上記から、この系図が恵林寺の快川国師が作成に関与した痕跡ではないかと思います。
観音堂の裏側(北)に勝頼の3男正晴の墓があります。系図には「寺村寺の段に葬る」と、母は三枝三郎晴友の娘と書かれています。地域では三枝を(みつぎ)と読んで勝頼の側室として鳴玉神社で一緒に眠っています。柿の元に葬ると書かれた鳴玉神社の柿木、桜のひょうたん桜と同じ時代を生き延びた強者です。終わり

流光山成福寺(寺村観音堂)
流光山成福寺(寺村観音堂)
鳴玉神社柿の木・勝頼公墓所
鳴玉神社柿の木・勝頼公墓所