日本一の奇跡、清流仁淀川。そして悲運の武将、武田勝頼が眠る地を巡る旅の駅

観光ガイドと地味噌うどんの店

うどん茶屋かつより

仁淀観光のことなら何でもご相談ください!

0889-20-2003

営業時間 午前9:00~午後9:00

定休日  日曜祝日・12/29~1/3

トップ > 武田勝頼土佐落人伝説 > 佐川の雅楽(武田信豊の次男)の所在が解った!

佐川の雅楽(武田信豊の次男)の所在が解った!

佐川町教育委員会で資料を見つける。
地検帳に出てくる雅楽、日本家系家紋研究所岡林一族に出てくる雅楽

(中村越前守信義の祠・佐川高北病院の改築移転される)
(中村越前守信義の祠・佐川高北病院の改築移転される)

1,地検帳に出てくる雅楽(がらく)は以前に報告、後の横畠左馬助(貞秀)

2,家系研究所の資料では、遠祖は「秦の始皇帝」、父は三野代官信近*嫡子・中村越前守信義・佐川松尾城城主。弟が岡林信靖(始め雅楽頭信吉・岡林を号して子孫に伝う)と。

3,佐川教育委員会資料から、
・中村越前守信義は弘治2年(1556)松尾城主となり佐川を治める。
・元亀元年(1570)長宗我部元親に墜ちる、久武内蔵助(佐川領す)に娘を娶し川内ヶ谷藤本土居に陰棲。
・久武内蔵助は天正7年(1579)南伊予との戦いで戦死、再び中村越前守信義が佐川を治る。
・慶長元年(1596)旧主、中山氏に藤本土居で討たれる。祠が町史に掲載
彼の弟で三野を管轄していた雅楽頭信吉については余り知られていない。 
祠が三野沖の古城の東隣にある(有った)

沖の古城隣
沖の古城隣
雅楽の祠・・・・だった
雅楽の祠・・・・だった

考察
1、兄が中村性を名乗って、弟(雅楽)が岡林を名乗るのは不自然ではないか、特に中村氏を殺した中山氏を勝頼の曾孫達(晴郷)が頼って佐川中山の土居に出ている事から考えると兄弟とは考えられない。
天正7年(1579)中村氏を討ち取った中山氏が天正10年以後に雅楽を庇護して中村氏の所領(三野)を継がしたのではないか。
つまり、町史等に書かれている弟説を除けば、歴史が繋がるわけです。

2、雅楽は元々岡林を名乗っていたのではないか、大崎八幡宮の神主達に繋がるわけですが。
勝頼の子孫は佐川中山→三野→沖の古城と移り現在に至る。
佐川中山土居近くの大乗院寺院では大崎玄蕃(勝頼)が祀られている。
沖の古城の隣の祠は、岡林雅楽頭信吉で、後の横畠左馬助貞秀は天正18年の地検帳では黒岩古城跡の屋敷に出てくる。
情報が多すぎて混乱しますが、勝頼(玄蕃)と信豊次男(雅楽)達が一族で懇ろにまつられているということです。