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武田信繁→武田信豊→武田雅楽・三代に及ぶ逃避行の物語

 土佐の大崎村に落ち延び27年後の慶長14年8月25日に逝去した武田勝頼の物語について、武田同族・従兄弟の信豊その子雅楽についてのお話。

1,武田勝頼は信玄の四男で天正元年に武田家20代当主となる。
天正10年3月11日天目山が終焉の地と正史では成っていますが、私達は所持する武田家系図から影武者説を採っています。
 勝頼は、香宗我部家を頼り土佐に入り、山田大宝寺楠目村→池川安居→寺村→大崎へと移住したと思います。
夫人は三枝夫人で子供達(信勝・檮姫・正晴)等々を連れて落ち延び、当地で子供達も生まれています。(武田家系図から)

2,今回発見の、武田雅楽は勝頼達より先に土佐に入り、雅楽は池川安居村ナカヤシキ荒・イッチキヤシキ・仁淀村別枝村下屋敷・佐川町アオサレノ村神母ヤシキ、何れも控地で雅楽は住んでいません、要するに天正10年末ごろ勝頼より先に池川安居に入り一族が勢力を池川・仁淀・佐川(片岡氏の本領)に伸ばして、検地の有った天正18年(1590)佐川黒岩に片岡氏の城跡に横畠左馬助の居宅が出てきます。この間勝頼の娘と夫婦となり元服し横畠に居たが梼姫(ゆすひめ)は文禄2年2月8日24歳で逝去していた事になります。
* 池川町歴史書では、雅楽を「ががく」と読み、宮中の古典芸能者と取り扱っています。読みの間違いが歴史を一変した事故だと思われます。
* 雅楽を「がらく」と読めば新たな歴史が見えてきます。武田雅楽助(たけだがらく又はうたのすけ)が本当の読みで信豊の次男です。長男は法輝で正史では小諸城で親子が自害したことになっています。今回池川安居の荒久山(唐九山)で見つけた岩倉信仰の遺跡は地域の方が(がらく)と言っていますので「がらく」が正しい読みの証拠だと思います。(池川町史・歴誌から)

3、武田信豊(父武田信繁)と子は、勝頼の娘を妻として諏訪に滞在して信州小諸城に籠もるが裏切りで親子は自害が定説です。    
*徳島県美馬市(太田村)の伝承では武田信玄の弟信綱(信廉・逍遥軒)が逃亡→高野山→阿波美馬郡脇城主を頼って太田村へ隠匿。その後左馬助信豊、武田信基らは逍遥軒信綱を頼って太田村に篭った。徳島県美馬市(貞光町史から)
*武田逍遥軒信綱は天正10年8月23日長宗我部の脇城攻撃で戦没するが、阿波の信豊は現在まで末裔が居るという。子供の雅楽助は土佐に逃れ横畠左馬助貞秀と改称、親子は遭遇することが出来なかったのか???